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百日咳の流行は1970年代にもあったのです

[2025.06.01]

ここに歴史をAIでまとめてもらったものを掲載しておきます

1979年前後の日本における百日咳流行:ワクチン政策の転換点とその公衆衛生学的帰結

I. 序論:戦後日本における予防可能疾患の再興

百日咳は、特有のけいれん性の咳発作を特徴とする急性の気道感染症であり、特に乳幼児にとっては重篤な結果を招き得る疾患である 1。本稿は、1979年前後に日本で発生した百日咳の顕著な再流行について、その歴史的背景、疫学的特徴、社会的影響、そして公衆衛生上の対応を包括的に分析することを目的とする。この流行は、ワクチン接種プログラムの有効性、副反応への懸念、政策決定、そして国民の信頼という要素がいかに複雑に絡み合い、公衆衛生に甚大な影響を及ぼし得るかを示す重要な事例である。

この流行が特に注目されるのは、日本が戦後、公衆衛生の改善とワクチン接種の普及により、百日咳を含む多くの感染症の制圧に目覚ましい成果を上げていた時期に発生したという点である。事実、1970年代初頭には、日本は世界で最も百日咳の罹患率が低い国の一つとなっていた 1。このような成功の後に起きた再流行は、公衆衛生における成果がいかに脆弱であり得るか、そして予防接種事業における継続的な警戒と国民の理解がいかに重要であるかを浮き彫りにした。かつての成功体験が、百日咳という疾患そのものの危険性に対する社会全体の認識を相対的に低下させていた可能性は否定できない。その結果、ワクチンの副反応が問題視された際に、疾患の脅威よりもワクチンのリスクが過剰に強調され、接種率の急激な低下を招いた一因となったとも考えられる。この歴史的経験は、ワクチン予防可能疾患が高度に制御された状況下においても、公衆衛生教育とリスクコミュニケーションの継続的な努力が不可欠であることを示唆している。

II. 先行する平穏:日本の百日咳ワクチン接種初期の成功と変化の兆し(1950年頃~1974年)

日本の百日咳対策は、1950年に百日咳ワクチン(Pワクチン)が予防接種法に基づくワクチンとして導入されたことから本格的に始まった 1。当初は単味ワクチンであったが、より効率的な接種を目指し、1958年からはジフテリアとの混合ワクチン(DPワクチン)、さらに1968年(昭和43年)からは破傷風トキソイドを加えた三種混合ワクチン(DPTワクチン)が定期接種として広く用いられるようになった 1。このDPTワクチンには、全菌体百日咳ワクチン(wP)が用いられていた。これらのワクチンの普及は目覚ましい効果を上げ、百日咳の報告患者数および死亡者数は劇的に減少した。1971年には年間報告患者数が206例、1972年には269例となり、日本は世界で最も百日咳の罹患率が低い国の一つと評価されるに至った 1。この時期の成功は、ワクチンによる感染症制圧の輝かしい実績として、国民および政府の期待を形成する基盤となった。

しかし、この成功の陰で、1970年代の日本社会は「薬害」という言葉に象徴される医薬品の安全性に対する国民の不安が高まっていた時期でもあった 5。例えば、1960年代後半には種痘後脳炎などのワクチン接種による健康被害が社会問題化しており 6、医薬品やワクチン全般に対する安全性の要求が高まっていた。全菌体百日咳ワクチンは、その有効性の高さと同時に、発熱や接種部位の腫脹といった副反応が比較的多く、稀ながら重篤な神経系合併症のリスクも指摘されていた。疾患の発生数が激減し、百日咳そのものの脅威が日常生活から遠のくにつれて、相対的にワクチンの副反応への関心が高まるという状況が生まれつつあった。これは、強力なワクチンの持つ有効性と潜在的リスクという二面性が、社会の安全意識の高まりの中でより鋭く問われるようになったことを意味する。つまり、百日咳の制圧という成功自体が、皮肉にもワクチンに対するリスク評価の天秤を、疾患の脅威からワクチンの副反応へと傾ける素地を作っていたのである。

III. 転換点:1975年のDPTワクチン危機とその直接的影響

A. 重篤な副反応と死亡事例の報告

1970年代初頭から、DPTワクチン(全菌体百日咳ワクチン含有)接種後の脳症を含む重篤な副反応の発生が問題視され始め、死亡例も報告されるようになった 1。特に1974年から1975年にかけての冬、DPTワクチン接種後24時間以内に乳児2名が死亡する事例が発生し、百日咳ワクチン成分への疑念が急速に高まった 57も1975年に2名の死亡例があったと言及している。

これらに加え、ほぼ同時期(「1975年頃」とされる)に、京都府および島根県で特定のロットのDPTワクチン接種後に重篤な健康被害が多発するという事件が発生した 9。この事件は、ワクチンの製造過程でホルマリンによる不活化が不十分であったことが原因とされ、接種を受けた子どもたちのうち674名が発症し、68名が死亡、生存した538名に後遺症が残るという甚大な被害をもたらした 9。この「特定の日に用いられた特定のロットに限られていた」という事実は 9、一般的な副反応とは次元の異なる、ワクチンの品質管理上の重大な欠陥に起因するものであったことを示している。このロット特異的な事故は、他の副反応事例とは別に、ワクチンそのものへの信頼を根底から揺るがすものであった。

これらの出来事が複合的に作用し、DPTワクチン、特にその百日咳成分に対する国民の不安は頂点に達した。一般的な全菌体ワクチンの反応原性の高さへの懸念、原因究明が困難な散発的な重篤副反応事例、そして製造上の欠陥に起因する明確な薬害事件がほぼ同時期に発生したことで、ワクチンの安全性に対する疑念は決定的なものとなった。

B. 政府の対応 – 接種中止と政策転換

これらの深刻な事態を受け、当時の厚生省は1975年2月、百日咳を含むワクチンの接種を一時的に中止するという異例の措置を講じた 1。この接種中止期間は同年4月まで続いた。接種再開にあたり、DPTワクチンの接種開始年齢が従来の生後3ヶ月から2歳へと大幅に引き上げられた 1。これは、より幼い乳児への副反応リスクを回避しようという意図があったものと推察されるが、結果として百日咳に対して最も脆弱な低年齢層が長期間無防備な状態に置かれることになった。

C. 国民の信頼失墜とワクチン接種率の急落

一連の副反応報告、死亡事例、そして政府による接種中止と再開後の接種対象年齢引き上げは、DPTワクチンに対する国民の信頼を著しく損なった 5。その結果、百日咳ワクチンの接種率は劇的に低下し、1976年には約10%にまで落ち込んだと報告されている 5。一部の地域では、DPTワクチンではなく、百日咳ワクチン成分を含まないDTワクチン(ジフテリア・破傷風混合ワクチン)を選択する動きも見られた 1。この接種率の急落は、単なる統計上の数値ではなく、ワクチンに対する広範な恐怖と不信感の現れであり、1970年代の「薬害」問題の文脈の中で、DPTワクチンがその新たな象徴となってしまったことを示している 5

この時期の危機は、単一の要因ではなく、複数のワクチン安全に関する事象が連鎖し、増幅しあった結果と理解できる。全菌体百日咳ワクチンの反応原性に対する元来の懸念、メディアでも大きく取り上げられた乳児死亡事例、そして何よりも京都・島根で発生したとされる不活化不全ロットによる大規模な健康被害 9 は、一般的な副反応の議論を超えた、製造物責任に関わる深刻な問題であった。このような大惨事が「1975年頃」に起きていたとすれば、国民の間に広がった恐怖と不信感は、単に2例の死亡事例(因果関係が必ずしも明確でなかった可能性もある)だけでは説明しきれないほどの深刻さを持っていたと考えられる。

また、政府による接種開始年齢の2歳への引き上げという決定は、副反応リスクが高いと認識された低年齢児を守るという予防原則に基づいた対応であったかもしれないが、百日咳の感染リスクが最も高い乳幼児期にワクチンによる防御が得られない期間を意図的に作り出すことになり、その後の流行拡大の大きな要因となった。これは、ワクチンのリスク管理と疾患予防のバランスがいかに難しいかを示す事例であり、安全性を追求する政策が、期せずして最も脆弱な集団を危険に晒すという皮肉な結果を招いたのである。

表1:日本の百日咳ワクチン危機と流行の主要な出来事の年表(1968年頃~1981年)

年/期間 出来事 典拠例
1968年 DPTワクチン(全菌体百日咳ワクチン含有)の定期接種開始 1
1970年代初頭 DPTワクチン接種後の重篤な副反応(脳症など)の報告増加 1
1974年冬~1975年初頭 DPTワクチン接種後の乳児死亡事例2件発生 5
1975年頃 京都・島根で特定ロットのDPTワクチンによる大規模健康被害発生(不活化不全が原因) 9
1975年2月~4月 厚生省が百日咳含有ワクチンの接種を一時中止 1
1975年4月 ワクチン接種再開、DPTワクチンの接種開始年齢を2歳に引き上げ 1
1976年 百日咳ワクチン接種率が約10%に低下。健康被害救済制度発足 5
1976年~1981年 全国的な百日咳の流行 3
1979年 報告患者数がピークに達する(約13,000人、死亡者数20~41人) 1
1981年秋 無細胞百日咳ワクチン(aP)を含む改良型DPTワクチン(DTaP)導入 1

IV. 1979年の百日咳流行:公衆衛生上の後退

A. 再興の疫学的特徴

ワクチン接種率の急激な低下は、必然的に百日咳の再流行をもたらした。1976年から1981年にかけて、日本は全国的な百日咳の流行に見舞われた 3。特に1979年には、伝染病予防法に基づく届出患者数が約13,000例から13,105例に達し、流行のピークを迎えた 1。同年の死亡者数については、約20例 1 あるいは41例 5 と報告に幅があるが、いずれにしても1970年代初頭の制圧状況からは著しい増加であった。12は、1970年代後半のワクチン接種率低下期に、百日咳による死者が合計113名に上ったと言及しており、流行が数年間にわたり深刻な影響を及ぼしたことを示唆している。

B. 未接種の若年層への不均衡な影響

百日咳は一般に乳幼児期、特に生後6ヶ月未満の乳児において重症化しやすく、致命率も高い疾患である 1。1979年前後の流行においても、その影響はワクチン未接種の乳幼児に集中した 1

千葉県で1979年に行われた血清疫学調査は、この状況を具体的に示している 11。223名の小児血清を対象としたこの調査では、0~2歳群における百日咳菌凝集抗体保有率が、ワクチン株に対して11.2%、流行株(新鮮分離株)に対しても31.0%と極めて低い値であった。抗体保有率は年齢とともに上昇する傾向が見られたが、これは年齢が上がるにつれてワクチン接種を受ける機会があったか、あるいは自然感染によるものと考えられた。重要なのは、百日咳患者またはその疑い例における予防接種率がわずか1.3%と非常に低かった点であり、これはワクチン接種が発症予防に有効であったことを裏付けるものであった。この調査結果は、特に3歳以下の低年齢層におけるワクチン接種の必要性を強く示唆していた 11。DPTワクチンの接種開始年齢が2歳に引き上げられた政策が、0~2歳という最も感染リスクの高い年齢層の脆弱性を高めたことは明らかであった。

C. ワクチン接種率低下と流行規模の直接的関連

1975年以降のワクチン接種率の急落 5 と、1976年から始まり1979年にピークを迎えた百日咳患者数の急増 1 との間には、明白な因果関係が存在する。これは、集団免疫の低下が感染症の再流行を招くという公衆衛生学の基本原則を如実に示す事例であった。ワクチン接種プログラムの破綻が、直接的かつ予測可能な形で流行を引き起こしたのである。

この流行の実態は、公式報告数をさらに上回っていた可能性が高い。1981年7月から「百日咳様疾患」として定点医療機関からの報告に基づく感染症発生動向調査が開始されると、従来の伝染病予防法に基づく届出数の約20倍の患者数が報告されるようになった 1。このことは、1979年の約13,000例という報告数も、実際の患者数を大幅に過小評価していた可能性を示唆している。つまり、当時の日本社会は、公式統計が示す以上に広範な百日咳の「静かなる流行」に直面していたと考えられる。

そして、最も悲劇的な側面は、ワクチンの副反応から乳幼児を守るという意図で導入された接種開始年齢の引き上げ政策 5 が、結果的にその最も脆弱な乳幼児を野生株百日咳菌の脅威に直接晒してしまったという点である。千葉県の調査データが示す0~2歳児の低い抗体保有率 11 は、この政策の意図せざる結果を冷厳に物語っている。安全性を優先したはずの政策が、結果として最大の感染リスクを生み出すという、公衆衛生政策のジレンマを象徴する出来事であった。

表2:日本の百日咳報告患者数および死亡者数の推移(1970年~1985年、抜粋)

報告患者数 (概数) 報告死亡者数 (概数) 典拠例 備考
1970年 約200人台前半 少数 1 ワクチン効果による低迷期 1
1972年 約269人 少数 1  
1975年 約1,000人 約1人 4* ワクチン危機直前の比較的低いレベル
1976年 約20,000人 約20人 4* 流行再燃の開始
1979年 約13,000~13,105人 約20~41人 1 流行のピーク
1981年 約2,000人 約2人 4* 改良ワクチン導入後の減少傾向
1982年 約1,000人 約1人 4* 旧報告システム。新サーベイランスでは23,675例 1
1985年 約100人 0人 4* 流行収束

*注:4のグラフからの読み取り値。厚生省伝染病統計・人口動態統計に基づく。年によって他の資料と若干の差異が見られる場合がある。1982年以降は新旧サーベイランスシステムの違いに注意。

V. 危機への対応と緩和努力

A. より安全なワクチンへの希求 – 無細胞百日咳ワクチン(aP)の開発

全菌体ワクチンの副反応に対する国民の強い懸念と信頼の失墜を受け、日本の研究者たちは、より反応原性の低い無細胞百日咳ワクチン(acellular pertussis vaccine: aP)の開発を急いだ 1。国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)が中心的な役割を担い、7年の歳月を費やして開発に成功したとされる 5。この新しい無細胞百日咳ワクチンとジフテリアトキソイド、破傷風トキソイドを混合したDTaPワクチンは、1981年秋から導入された 1。これは、公衆衛生上の喫緊の課題に対応するための、科学技術的成果であった。その目標は、単に有効なワクチンを供給することに留まらず、安全性を向上させることで失われた国民の信頼を再構築することにあった。

B. 国家予防接種戦略とサーベイランスの調整

DTaPワクチンの導入に伴い、低下していたワクチン接種率は徐々に回復に向かった 1。また、流行の実態をより正確に把握するため、1981年7月からは指定された定点医療機関を通じて「百日咳様疾患」の発生状況を報告する新しいサーベイランスシステムが開始された。このシステムにより、例えば1982年には全定点から23,675例が報告されるなど、従来の届出制度よりもはるかに多くの患者数が捕捉されるようになり、疾患の真の負荷が明らかになった 1

直接的な危機対応とは別に、長期的にはワクチン政策にも変化が見られた。1988年12月には厚生省が、百日咳の予防接種は個別接種を基本とし、集団接種の場合でも生後3ヶ月から接種可能である旨を通知した 3。さらに、1994年の予防接種法改正では、DTaPワクチンの接種が集団義務接種から個別勧奨(努力義務)接種へと大きく転換され、標準的な初回免疫の接種年齢は生後3ヶ月から12ヶ月とされた 3。これらの変更は、ワクチンの提供方法や接種義務に関する考え方の変遷を反映している。

C. ワクチン関連健康被害への対応 – 健康被害救済制度の設立

百日咳ワクチン問題に限らず、1970年代にはワクチン接種後の健康被害に対する社会的な関心が高まり、関連する訴訟も相次いでいた 5。このような状況を受け、1976年には「健康被害救済制度」が創設された 5。この制度は、予防接種と健康被害との間に因果関係が認定された場合、過失の有無を問わず迅速に救済を行うことを目的としており、当時の定期接種が義務であったことに対する政府の責任をある程度認めるものであった 5。この制度は、1979年の百日咳流行そのものを防ぐものではなかったが、ワクチン副反応問題の社会的な影響を緩和し、国家による予防接種事業に対する国民の信頼をいくらかでも回復しようとする広範な取り組みの一環であった。

無細胞百日咳ワクチンの開発は、単なる技術的な改良に留まらず、失墜した国民の信頼を回復するための社会的な解決策としての意味合いも強かった。その安全性の向上は、国民が再び予防接種プログラムに積極的に参加する上で不可欠な要素であった。DTaPワクチンの導入は、ある種の「再出発」を意味し、実際に広く受け入れられ接種率の向上に繋がった 5。この成功は、ワクチンの免疫学的特性だけでなく、国民の受容性がいかに重要であるかを示している。

一方で、1976年に設立された健康被害救済制度 5 は、ワクチン関連の問題が既に社会的に大きな注目を集め、法的な対応が求められるようになった後に設けられたものであり、その対応は後手に回った感が否めない。これは、当時、ワクチンのリスク管理や被害者救済に対する体系的なアプローチが、問題発生に追いついていなかった可能性を示唆している。予防接種という公衆衛生上重要な介入に伴う不可避的なリスクに対し、社会としてどのように向き合い、対応していくかという課題が、この時期に顕在化したと言える。

VI. 流行の余波と持続する教訓

A. 無細胞ワクチンの効果と流行の鎮静化

1981年に導入されたDTaPワクチンは、その安全性と有効性により国民に受け入れられ、ワクチン接種率は著しく向上した。これに伴い、百日咳の罹患率は再び減少し、1975年のワクチン危機以前のレベル、あるいはそれ以下にまで低下した 1。旧報告システムに基づく報告患者数は1980年代初頭を通じて減少し続け 4、1976年から続いた流行は実質的に終息した。これは、新しいワクチンが流行制御と国民の信頼回復の両面で成功を収めたことを示している。

B. ワクチン政策と国民認識への長期的影響

1975年のワクチン危機とそれに続く百日咳流行は、日本のワクチンに対する国民の信頼に長期的な影響を残した。一部の専門家は、この経験が、他の先進諸国と比較して日本のワクチン行政や国民のワクチン受容に対してより慎重な、あるいはためらいがちな傾向を生んだと指摘している 5。「薬害」という言葉は社会に深く刻み込まれた 5

ワクチン政策の理念にも変化が見られた。最終的に1994年の予防接種法改正で、集団義務接種から個別勧奨接種へと移行した背景には 3、1970年代の否定的な経験を通じて高まった個人の自己決定権やインフォームド・コンセント重視の社会的風潮があった。また、この一連の出来事は、ワクチンの安全性監視体制の強化や、副反応を最小限に抑えることへの強い意識を日本のワクチン行政に植え付けた。

C. 感染症対策への教訓

この流行は、いくつかの重要な教訓を残した。第一に、かつて高度に制御されていた疾患であっても、ワクチン接種率が低下すれば急速に再興し得るという脆弱性である。第二に、予防接種プログラムの成否は、国民の信頼に大きく左右されるということであり、そのためにはリスクとベネフィットに関する透明性の高い情報提供、効果的なコミュニケーション、そして堅牢な安全性監視体制が不可欠である。第三に、ワクチンの安全性に関する問題やアウトブレイクが発生した際には、迅速な科学的対応(より安全なワクチンの開発など)と、柔軟な公衆衛生政策の変更が求められるということである。

1970年代の百日咳ワクチンを巡る一連の出来事は、日本のワクチン政策のあり方に特有の道筋を刻んだと言える。それは、極度の慎重さ、集団防衛よりも個人の意思決定の尊重、そして他の主要先進国と比較して新しいワクチンの導入や接種率向上に時間を要する傾向として現れた。これは単に百日咳ワクチンに留まらず、日本のワクチン行政全体に及ぶ構造的な変化であった。より安全な無細胞ワクチンの開発 1 や健康被害救済制度の設立 5 は重要な対応であったが、同時に、国家による予防接種のあり方そのものに対する根本的な問い直しへと繋がり、1994年の予防接種法改正における「努力義務」化や個別接種原則へと帰結した 3。この歴史的経緯から生まれた社会全体の慎重な姿勢は、その後の日本のワクチン導入の遅れや接種率の伸び悩みの一因となった可能性も指摘されている。

さらに、無細胞ワクチンが短期的には百日咳の流行を鎮静化させたものの、1970年代の「薬害」体験が残したワクチンへの不信感やためらいが社会に根強く残った場合、長期的な疫学的影響も懸念される。例えば、その後の世代における定期接種や追加接種の接種率が伸び悩めば、集団免疫が徐々に低下し、小規模ながら頻繁な流行や、感染者の年齢構成の変化(小児期のワクチン効果が減衰した青年・成人層での百日咳増加など 1)を引き起こす可能性がある。つまり、無細胞ワクチンという「解決策」は当面の危機を回避したが、ワクチン信頼性というより広範な「問題」は、長期的な疫学的影響として尾を引く可能性を秘めているのである。

VII. 結論:1979年百日咳流行の総括 – 複合的要因の輻輳と変革への触媒

1979年の百日咳流行は、単一の原因によるものではなく、複数の要因が複雑に絡み合った結果であった。全菌体ワクチンの初期の成功、その後の重篤な副反応報告(京都・島根での不活化不全ロットによる大規模被害 9 を含む)に端を発する信頼の危機、政府によるワクチン接種の一時中止と接種対象年齢の引き上げという政策対応、そしてそれに伴うワクチン接種率の急激な低下が、流行の直接的な引き金となった。

この流行は、特にワクチンによる予防の機会を奪われた乳幼児に大きな犠牲を強いた。しかし、この危機的状況は、より安全な無細胞百日咳ワクチンの開発と導入という、科学技術的な進歩を促す契機ともなった。この新しいワクチンは、流行の制御において決定的な役割を果たした。

1979年の百日咳流行、そして1970年代の日本における一連のワクチン関連問題は、深刻な教訓を残した。それは、ワクチンの安全性の確保、透明性の高い公衆衛生コミュニケーション、堅牢な市販後調査体制の必要性、そして公正な健康被害救済制度の確立がいかに重要であるかを痛感させるものであった。この歴史的経験は、日本の公衆衛生およびワクチン行政のあり方に永続的な影響を与え、疾患予防、個人の権利、そして国民の信頼という三者の間のデリケートなバランスを常に意識させる重石となっている。

この出来事を通じて、日本社会におけるワクチンのリスクに対する認識は根本的に変化したと言える。一時期、ワクチンの副反応リスク(実際の製造上の欠陥による被害 9 によって増幅された)が、疾患そのもののリスクよりも重く受け止められるという、公衆衛生の成功物語とは逆の現象が生じた。この経験は、ワクチンリスクとベネフィットの比較考量が、日本の公衆衛生政策および国民意識の中で永続的に変化したことを示している。1979年の百日咳流行は、ワクチン信頼性の社会動態に関する世界的に見ても重要な歴史的事例であり、科学的革新だけでは不十分で、国民の信頼を構築・維持し、安全性の懸念に積極的に取り組み、透明で倫理的な公衆衛生ガバナンスを確保するための持続的な努力が不可欠であることを示している。1979年の出来事の反響は、百日咳という特定の疾患やワクチンを超えて、今日のワクチン受容と政策形成にまで影響を及ぼし続けているのである。

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