何者かにならなくても、夜は明ける
職業柄、子育てやら、医学生の教育について考えることがよくある。
そもそもの本質はなんだろうと。
ふと昨晩浮かんだので忘れないうちにメモしておこう。
人間の幸福には2種類ある。幸福なんて書くと大げさすぎるだろうか。
喜び、とでもしておこう。
何かができるようになる自分という喜びと、何かができなくてもそのままで良いという喜びである。
子どもたちは物心ついた時から、前者の喜びを追い求めるように教育される。「逆上がりができた」「テストで満点を取った」「憧れの会社に内定した」……。できなかったことができるようになる瞬間、視界はパッと開け、世界は万能感という名の鮮やかな色彩を帯びる。これは、いわば「上昇の喜び」だ。できなかったゲームをクリアした。パズルが解けるようになった。そんな喜びである。
しかし、この喜びにはある種の「毒」が含まれている。それは、常に「今の自分」を否定し続けなければならないという、終わりのない渇望だ。
「上昇の喜び」が抱える罠
私たちは、「できること」を増やすことで、自分の価値を証明しようとする。それは進化の過程で身につけた生存本能かもしれない。しかし、この道は時に険しい。
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相対的な充足感: 誰かと比較した瞬間に、その喜びは霧散する。
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ゴールの消失: 一つを達成すれば、すぐさま次の「できる」を求められる。
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自己否定の燃料: 「できない自分」を悪と見なしてしまう。価値がないと思い込んでしまう。
もちろん、成長の喜びを否定するつもりはない。それは人生のスパイスであり、私たちが前進するための強力なエンジンだ。しかし、エンジンを全開にし続ければ、いつか心という名の機体は悲鳴を上げる。
私は、そんな医学生や、いくつになっても親の呪縛に引きづられている医師を実際にみてきた。
「存在の喜び」という静かな革命
そこでもう一つの、「存在の喜び」が重要になる。
「何かができなくても、そのままで良い」
この感覚は、怠惰や諦めではない。むしろ、自分という存在に対する圧倒的な「肯定の意志」だ。朝起きて、太陽の光を浴び、ただ呼吸をしている。それだけで自分という存在には、何物にも代えがたい価値があるのだと認めること。
これは、社会が求める「生産性」という物差しを投げ捨ててしまう、一種の知的で静かな革命だ。
「Doing(すること)」の喜びと、「Being(あること)」の喜び。 人生はこの二つの呼吸で成り立っている。
二つの喜びを調律する
現代を生きる私たちは、あまりにも「Doing(できること)」に偏りすぎている。まるで片足だけで全力疾走しているようなものだ。
本当の幸福とは、この二つの間を振り子のように行き来することにあるのではないだろうか。
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何かに挑戦し、自分を更新していく高揚感を味わう。
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同時に、たとえ失敗し、何も残せなかったとしても、布団の中で「今日も生きていて良かった」と自分に◯をつける。
「できる自分」を誇らしく思う強さと、「できない自分」を笑える寛容さ。その両方を持って初めて、私たちはこの複雑な世界を軽やかに歩いていける。
子育ての基本として、この両立を覚えておいてほしい。
あるいは自分の人生デザインにおいても、この両立をおぼえておいてほしい。
もし、あなたが今、成長できない自分に焦りを感じているのなら、少しだけ立ち止まってほしい。そして、もう一つの喜びの存在を思い出してほしい。
あなたは、何かができるから価値があるのではない。あなたとしてそこに存在していること、それ自体がすでに一つの完成形なのだ。
あなたが渦中に在るときには、とてもそうは思えないだろう。そんな余裕はないかもしれない。でも、これが現実であり、原理原則なのだ。
歩き始めた赤ちゃんは失敗したとてがっかりはしない。泣くことがあっても、自分を責めることはしない。
うまくいって大喜びする。
私たちも死ぬまで、そんなふうに生きられたら人生の喜びの量は増えていくことだろう。
